Jiro物語 (8) ―― 手術 ―― 98/06/01..
「先生、もう点滴ですか?ちょっと早いのでは?」と看護婦さん。「いやいやぼちぼち整えましょう。」そう言われながらもう準備にとりかかられています。

私は24歳から今日まで、50回近く献血をしています。(祖父が昭和52年の1月22日、私の誕生日に亡くなったのですが、その2年前に大手術をしたおり、たくさんの方から輸血をして頂きました。当時は献血するとその分輸血を受ける権利ができるようなシステムでしたので,後払いの義務の履行を、ご恩返しのつもりで始めた献血でした。)私は若干金太郎タイプ、少々太目なものでして、右腕関節のしわ近く以外はなかなか血管が浮き出てこないのです。ですから針を刺すのはいつもその場所に決まってしまい、何十本もの注射痕で2mm×5mmほどの皮膚がごく軽微のケロイド状に変質しています。ところがこの日の点滴は左腕でした。さすが、一度で血管を探し当てられ、私の緊張も最小限ですみました。針がツツーッと入る一瞬はいつも胸がキュンとなります。左手でよかったです。例の移動用の点滴懸架医療機具は、私の利き腕である右手で結構力を入れて操作しないと思ったように動いてくれない年代ものでした。しばらくして取り替えては下さいましたが、それを操りながら初めてトイレに入ったときはちょっとした重労働となりました。

さてこの辺から記憶が定かではありません。きっと自分で意識してなくても初めての手術でかなり緊張していたものと思います。トイレに2度行ってもまだ尿意がありました。

すべて準備が整い,病室の方々に挨拶し移動用のベッドに乗り病室を後にしました。看護婦さんと家内が側についてくれています。天井がぐるぐる動くので、気分が悪くならないかな、と気になりました。実は中学時代までヒドイ車酔いで、自転車で30分くらいのところにある高校へは、“体を鍛えるため”バス通学をしてたくらいです。同じものでも見る角度が変わるとずいぶん違った印象を受けます。特に自分の存在する空間が普段と異なるとほとんど迷子の小猫ちゃんです。エレベータの中でも廊下の移動中にも、自分はどこに向かっているのだろうと、ニャンニャンニャーン。

しかし、無事、手術室の入り口に着きました。扉の開く音がして中に入りました。病室の看護婦さんは「市川さん、また迎えに来るからね」としばしお別れ。「がんばって下さい」と家内。手術に立ち会う看護婦さんとバトンタッチです。大きなマスクをされていているので顔立ちがわかりません。声のトーンと目だけのコミュニケーション。きっと美人揃いだとは思うのですが、人間から表情を取り上げるとどうもいけません。しかも、室温が低いのか、私が緊張しているからか、寒くてしかたありません。体が小刻みに震えます。しっかりしなくっちゃ。

手術台はひとこぶラクダのようでした。そこにプールに飛び込む瞬間、腰もひざも曲がったままの体勢でうつ伏せになって手術を受けます。背骨の下の方に局部麻酔を受けた後ごそごそベッドから移動しました。「よろしくお願いします」という自分の声が多少上ずっているような気がしました。「市川さん、だいぶ緊張してますね。」すかさず執刀医の先生。

手術が始まりました。意識はしっかりしているので医師や看護婦さんの会話が聞き取れます。「ウーンと。これこれ。これがそうだね。」「えーと、ガーゼを」等々。もちろんカチャカチャ金属音も。しばらくするとプー・・プー・・と電子音がしました。はて何の音だろうと神経を集中させていると続いて焼き肉の臭いがしてきました。「あれー、もしかしてこれが電気メス!」それからしばらくしてまた同じ音がしてその後同じ臭いが漂ってきました。間違いない!僕のお尻が焦げているのです。ただのお尻じゃない。お尻の中が!

手術の痛みはまったくありませんでした。麻酔がちゃんと効いていたのでしょう。ただ両足やお腹のほうに届くほどの衝撃を何度も感じました。きっとかなりの力が加わっていたものと思います。

手術の最中私はどんな言葉を思い浮かべるか自分に対して興味を覚えていました。「お母さん」「慈悲寛大」「大悟一徹」等々いろいろ思い浮かべましたがどれもあっさり消えて行き、最後に残ったのは福澤先生の「独立自尊」でした。りっぱな教えだと再認識しました。

「すみましたよ」前もって伺っていたように20分少々の手術でした。先生は切り取った私の分身を見せて下さいました。まるで焼き肉。親指ほどの肉魂でした。ということは私のお尻にそれだけの穴が空いてることになる。ええー。今僕のお尻はどうなってるの?

 

Jiro物語 (9) ―― 術後 ―― 98/06/15
病室に戻って最初に気づいたのは、手術で施された局部麻酔が見事に効いているということでした。「シビレが切れる」という表現はふつう足に対して使われますが、そのままのことがお尻とオチンチンに起っていました。シビレが切れているのです。感覚が無いのです。その部分だけが我が身から取り外されているような気がしました。

頭もぼんやりしています。痛み止めのせいかすべての感覚がにぶーくなっていました。少し熱っぽくて、体温を計ってもらうと37.8度あります。ふわふわしていました。うつらうつら、トロントロンとしていました。かなりの時間が経ち、看護婦さんが問診に来られました。「市川さん、おしっこ出ましたか?」「いえ、尿意が無いというかなんと言うか。やってみましょうか?」ずーっと付き添っている家内に目配せしてナントか用を足そうとしましたが、いかんせん感覚が無いのです。頑張って頑張って出そうとしますが、出ているのか出ていないのかすら自分で認識できません。「駄目みたいです。」と言うと看護婦さんは淡々と「明日も無理なら管を入れましょうね。」「エエッ!」

そういう処置があるということは知っていましたが、私としては絶対避けたい、避けなければ!と心の中で唸りました。剃毛まではいざ知らず、医療行為とはいえ尿道に管を通すとなると、いくらなんでも家内に申し訳ないな、と悲しい気分になりました。その時容器を取り出しながら「あ、出てた。出てます。」と家内。ところが残念ながら20〜30cc程度なのです。これでは「出た」とは言えません。

その夜は微熱が続きました。意識がもうろうとしていると、弟が見舞いに来てくれました。「ちょっとしんどそうやな。」「なんで?」「疲れた顔してる」「熱があるみたいで。体もなんか変やね。」「ま、一晩辛抱かな。お大事に。ほんなら帰るワ。」短い会話でしたが、大変心が落ち着きました。

さて翌朝。大寒の中、家内は午前7時前に病院に来てくれました。到着したとき、私はまだ眠っていたそうです。午前9時、若い医師が検診に来られました。「市川さん、ガーゼをはずしますよ。」「は?はい。お尻に入っているのですか。」「ちょっと痛いかもしれませんよ。」感覚はもうかなり戻ってきていましたので、その言葉を聞いて少し身構えました。親指ほどの肉が切り取られ、その中にガーゼが入っているのです。それを取り除くとは!

シルクハットからテープをクルクルバトンに絡めて取り出す手品がありますがちょうどそんな感じでした。お尻からガーゼが引き抜かれるのはしっかり感じ取れました。それがすごく長い時間かかったのです。きっと1mくらいは入っていたのではないでしょうか。どんな激痛だろうかと心配しましたがまったく痛みがありません。でも、私には見えませんがきっと血みどろのガーゼを処理して下さったのだろうと思います。

さて、おしっこです。ところが今回は全然出ませんでした。躾とは難儀なものです。横になって布団の中ではどんなにガンバッテも出ないのです。膀胱を上から押さえもしましたが駄目でした。小便小僧をイメージしながらジョンジョロリンジョンジョロリンと音まで真似ましたが駄目でした。とうとう打つ手がありません。「管を通す」という看護婦さんの言葉が一挙に現実味を帯びてきました。

「市川さん、おしっこどうでしたか?」最後通達、冷徹な響き。「出ないのです。」「う〜ん。トイレに行ってみますか?」「動いても良いのですか」「ガーゼはずして頂いたでしょ。一日寝てたからもう大丈夫ですよ。それでも出なかったら…」「はい、わかりました。じゃあ…。」悲壮感が漂います。

私はお尻に力を入れないように、両の腕で体を支え、恐る恐る床に足を下ろしました。そして一歩また一歩と、トイレに向いました。後から家内がついてきます。トイレのスリッパに履き替え、祈る気持ちで便器に向いました。その瞬間あっと言う間におしっこは出てくれました。 「ああ、ありがたい。あれほどてこずったのに,ぎりぎりの瀬戸際で救われた。」

「出た。」トイレの外で待つ家内にそう言いました。そのとき私は一等賞のくじ引きが当たった幼稚園児のような表情をしていたに違いありません。

 

Jiro物語 (10) ―― 入院生活 ―― 98/07/01
家内の実家は8代続いた仏壇の製造販売をしています。昔ながらの手作りがモットーです。頭の薄くなった義兄は「若さん」などと呼ばれています。そして今日でさえ従業員の職人さんたちと家族が一緒に食事を頂きます。その支度は女性の仕事。お手伝い,とうか家族以上の“HSのおばちゃん”はじめ家内やお母さんが来る日も来る日もおもてなしするわけです。大所帯なので手際良く美味しいものを作らなければなりません。そんな娘時代の実践は管理栄養士とかいう資格をとった学生時代の勉強が下支えし,うまくあいまって料理の腕をメキメキ上達させました。これは私の自慢です。よくお客様をお迎えできるのも家内のお陰です。しかも卒業後ほんの数ヶ月間ではありますが,M総合病院で入院患者の献立を担当していたこともあるのです。

私たちが結婚して13年少々になります。いつも料理が美味しいので一人で外食してみようという誘惑に襲われたことがありません。この年月の積み重ねで,私の食事(だけではないのですが・・・,実は。)は「家内味」が完全支配しています。同居している両親とは台所が別々で,たまに一緒に食事をすると,母屋流濃い目の味付けになお醤油をトロトロドップリ使う父の舌を奇異にさえ感じます。体に悪い,と苦言を呈するのですが,毎朝二匹の飼い犬との小1時間の散歩をかかさない成果で10才も年齢が若い,と老人大学のスポーツテストで評価されます。たいしたものです。

そんなわけで,私は「うす味」を素直に「美味しい!」と感じることができる体になっていたのです。このことが功を奏しました。

病院食が美味しい自宅で食事していると同じ気分で心置きなく頂くことができます。ごはん,魚の煮物,ほうれん草そしてこうや豆腐に切り干し大根,好物のチキン,苦手なニンジンまで何から何まで一片たりとも残したことがありません。

私の真向かいに声帯を手術した方がいました。仮にJさんとお呼びします。術後で声をだしてはいけならしく筆談が多かったですが,味がうすくてうすくて悲しくなると訴えられます。Jさんはいつもおかずを下さるのです。「ムグムグおいしい。モグペチャおいしい。」と楽しく食べる私を本気で疑われるのです。それほど口に合わなかったのでしょう。わかるような気がします。もしも逆に濃い味付けだったら私には苦痛だったでしょう。見かねた家内はとうとう自宅でJさんバージョンのおかずを作って持参し,お分けするという計画を実行に移しました。ずいぶん喜ばれ何度も何度もお礼を言われました。一口食べてはありがとう。二口食べてはダンケシェン。食事がすんでまたまたお礼。これをお読みの貴方の好みはいかがですか。どうぞ「その日のため」にあまり濃い味になじまれませんように。

さて,食べたら排泄しなければなりません。それが自然の摂理です。もちろん便を柔らかくする薬を頂いてはいましたが,私にはおしっこ以来の恐怖。その瞬間が刻々近づいてきます。術後初めての食事は24日の朝。計算してみると夕方にはお通じがありそうです。どんなことになるのか想像がつきません。この時 Asoちゃん(リンクページご参照)と知り合っていたならアドバイス頂いたかも知れませんとにかく「恐い」と思いました。が,結局その日は便意がなく決戦は持ち越しとなりました。

翌朝でした。10時頃家内と一緒に4畳ほどの広さのトイレに入りました。便座に腰掛け慎重に慎重に,力まず,力んで,呼吸を入れて,間をとってウッ。ほんの少し出た感じがありました。痛みはありません。便は極々少量でした。大き目のミミズ程度。出血はポタポタ程度だったでしょうか,よく覚えていません。そして思い切ってウォシュレットもすませました。これはお尻を思わず持ち上げたくなるほどビリビリ痛みが走りました。続いて洗面器の親分のような容器に水を注ぎ,消毒液を垂らし,それをまたぐように座り,腰を上下させ起こった小刻みな波でチャプチャプお尻を洗います。それがすむと便器横の壁に付いたボタンを押し看護婦さんを呼びます。イソジンでお尻の消毒仕上げです。このとき丸く固められた脱脂綿の先で優しくくチョンチョンとお尻に薬を塗って下さるのです。「昨日に比べたらずいぶんキレイに直り始めていますよ」笑顔とこんな言葉に患者はどれほど安堵し励まされるか身を持って体験することができました。最後は束ねたガーゼをお尻に挟んでずれないようにテープで貼り付けます。実は,これをはがすのが大変です。皮膚があまり頑丈ではないので少しかぶれそうになりました。ところでこの一連の作業の間中,私は前屈の体を保っているのです。そばで家内はいろいろ手助けしてくれます。

その日の昼食の後,3時頃でしょうか,ついにはっきりした便意が私を襲いました。すでに4食分がお腹にたまっているのです。とうとう来るべきものがたのです

 

Jiro物語 (11) ―― 退院 ―― 98/07/15
家内と二人で急いでトイレに向かいました。お尻にはさんであるガーゼをはずし便器に腰掛けウンを天に任せました。そしてその瞬間、どんな激痛にも喜びをもって耐え抜こう、と決心しました。だからあえて緩急のコントロールはしませんでした。するとすぐに、なんとなく、ウンコが出たのかな、という感触がありました。が、まったく痛みがないのです。「これはおかしい。まだ出ていないのかもしれない。」そう思い直しました。すると続いて、ボソボソ,ズヨォー(高校時代の友人M君が一度ウンコをしてしまったとき確かに聞いた!という音。それとそっくりの音でした。)と通り抜けていきました。しかし、やはり痛みはありません。ウンコの臭いはかすかに漂いました。これがすべてでした。

私の術後初めてのトイレは、必要にして十分な排便量にも拘わらず、まったく無痛のうちに終わりました。便は、薬のお陰で肛門を押し広げなくても排泄できるほどに柔らかになっているのです。どんなものかというと、下痢のような水まじりの柔らかさで便器にたまった水に飛散してしまうという代物ではなく、スポンジケーキというかドラ焼きの包みというか、それをもっとソフトに焼き上げ適度な湿度を加えたUFO(Unidentified Floating Object:未確認浮遊物体)状でした。水の中でもちゃんと形を保っています。医学の力はすごいなと感じました。しかし,この柔らかさが後々何十日もわざわいするのです。リバーシブル塞翁が馬です。

一連の後処理を済ませ病室に戻りました。「市川さん、どうでした?」と看護婦さん。「ありがとうございます。お蔭様で、ちゃんと出ました。でも…、あのー…。」「どうされました?」「いえ、実はぜんぜん痛みが無かったのです。はじめのトイレはメチャメチャ痛い、って聞いていたのですけど。痛くなくて。ちょっとおかしいのでは,と心配しています。」「市川さん、それはありがたいことですよ。めったにお目にかかれはしませんが,たまにそんな方がおられます。痛みが無いのは、本当にありがたいことです。」「へー、そんなものですか。猜疑心で症状を診てました。ぼくはラッキーなんですね。感謝しないといけません。」「そのとおりですよ!めちゃラッキーなんです。」

こんな風に私の回復は大変良好でした。それから以後一度も痛みを感じずに入院生活を送ることができました。手術前,最低5日か一週間は入院していないとダメですよ。術後に頭痛にみまわれる患者さんもいるし、と言われた執刀医の先生も「うーん。これなら来週月曜、何とか退院できるかな」とトーンダウンされるほどに傷口も順調に回復していたようです。

体調が良いもので結構本も読みました。体力の回復にリハビリテーションにも精を出しました。廊下を何度も何度も往復し、階段を上り下りしました。おニューのガウンを身にまといセッセと体を動かしました。食欲はあるし、便も快調、熱は平熱。すべて申し分ありませんでした。ただ,読書の後は少し頭痛があり,その都度家内はアイスノンを用意するため走り回ってくれました。夜遅く自宅まで取りに帰ってもくれました。おかげでしばらく横になると痛みは消え楽になりました。経過があまりに調子良く何の懸念も感じないまま,あっという間に退院の日を迎えました。病室の方々は「えっ、もう退院!?こないだ入ってこられてもう…。正直,羨ましいな。」皆さん羨望の眼差しです。その中で私と家内は荷物をまとめ出しました。

1月26日,月曜日。最後の昼食を頂いた後の午後1時過ぎ,すっかり身支度を整え,退院の手続きを済ませ,病室をあとにしました。さっそうと駐車場に向かいました。が,エレベーターに乗ろうとしたおりあたりから急に体調がおかしくなりました。頭を持ち上げて歩けないのです。前方を見ようとすると頭がズキズキ痛みます。悪寒を覚えるほどでした。それで念のため、家内に運転してもらうことにし,私が助手席シートに腰掛けようとすると,ガーンと一撃。言葉にならない激痛が走りました。頭がガンガンしはじめました。普段はものともしない自動車の揺れにも絶えられず,今にも嘔吐しそうな気分にもなりました。

これがあれほどの苦しみの始まりだったとは!

病院から車で7〜8分のところに自宅がありますが,あの日は何倍もの距離に感じました。帰宅し仏前と両親に報告し離れに戻りつくと,私はそのままソファーに倒れ込んでしまいました。どうしても頭を持ち上げることができません。「市川さん,傷はきれいに治り始めています。が,術後3〜4日して頭痛で大変な患者さんもいます。最低5日,できれば一週間は入院を」という医師の言葉がぐるぐる頭を駆け巡ります。5時にはスタッフとの打ち合わせが始まる。これからどうなるのか,体は持つのか。私は,一挙に不安の淵にたたき落とされてしまいました。

 

Jiro物語 (12) ―― 魔の3日間 ―― 98/08/01..
首の付け根の深いところから脳天に向けて逆くい打ちが始まったみたいでした。頭が痛いとか重いという表現では言い表せない感覚。鉄のパイプがグビグビグビッと戦国武将の旗印のように突き抜け,そびえたち,それに縄をかけた意地悪な赤鬼と青鬼が力任せに私の首ごと前に引っ張り倒そうとするようなプレッシャーでした。ナイフで指を切るとしばらく脈拍にあわせてズキズキ痛みますが,今回経験した頭痛にリズムはありませんでした。絶え間ない痛みが続くのです。

とにかく頭をもたげることが出来ません。家族とは横になったままで,またスタッフとの打合せのおりには両手で自分の頭を支え,うつむいたまま話すのです。対座している相手の顔を正視することが出来ません。こうしていても10分も経たない間にもう絶えられなくなります。席を立ち,別室へ。鬼どもに引き倒されます。ガクンと膝が崩れます。なんとか両腕で体を支え,体中に力を込めてスローモーションで横になります。

席を外せないときは事情を話し,クッションを机の上に置き,それを抱きかかえるようにして頭を預けます。こうするとずいぶん楽になります。3分ほどしてもとの姿勢に戻すと「顔色がお悪いですね。」そう言われて上目使いに鏡に写った自分を見詰めてみました。顔面蒼白。気合を入れて,踏ん張って!と自分自身を励まします。あと1時間,あと30分。呪文のように唱えました。

軽微な手術とはいえたった4日で退院して,その数時間後には日常業務に復帰しましたが,これにはやはりかなりの無理がありました。いま振り返るとずいぶん無茶をしたものと反省もしています。吐き気は無く,食欲もありました。それでも,経験したことのない頭痛に耐えながら,最悪の半歩手前くらいの状態で,とにかく少しずつ留守中滞っていた仕事を片づけ始めました。

メールもそのうちの一つ。いろいろ考えさせられました。入院中に届いたものは家内がその都度プリントアウトして病院まで持って来てくれました。お陰で留守中の「流れ」がつかめて大変助かりました。近未来には院内でモバイルコンピュータが使えるようになるかもしれません。家内の手を煩わせることも無かったのかもしれませんが,そうなったらそうなったできっと現状とは違う切り口で人のぬくもりが介在する必要性が出てくることでしょう。昔,人間が心を込めて時間をかけてやっとこさ成し遂げたことをコンピュターは心を込めずにアッというまに処理するのです。我々人間が昨日していたことは機械が立派に代役をつとめます。主人以上の働きです。たまにフリーズする以外文句も言いません。ですから同じことをしていては誰も喜んでくれなくなるのです。より高い次元でよりすばやく社会の発展に,人様の喜びに,役立たなければ生きていきにくい時代,言い換えればこれから先我々人間はもっともっと進化しなければ永続性のある幸せは味わえないのかも知れない,などど思いを巡らせました。

さて,こんな地獄の状態が丸3日続きました。その間,肝心のお尻の方はどうだったかというと,こちらは総じて順調でした。入院中にウォシュレットにアップグレードしたトイレで毎朝用を足します。すぐ例の“チャプチャプ消毒作業”に入ります。これまでの試行錯誤で術後はずいぶん手際良くこなせるようになっていました。傷口は,肛門横にバイパスのようにぽっかりあいています。親指大の肉の固まりが取り除かれたのですから無理もありません。その部分に自然と肉が盛ってくるのを待つわけです。看護婦さんがして くれたイソジンでの消毒を家内が受け持ってくれました。毎日毎日脱脂綿を小さなビー玉くらいに丸めそれを液に浸しチョンチョンゴンニョゴと傷口をなで回します。余談ですが,これは癖になります。結構気持ちが良いのです。排便にまで神様は気持ち良さを付 け加えられたとか,なかなか粋なはからいです。

イソジン消毒の後はガーゼをお尻に挟みます。縦15cm横25cmくらいに切り取ったものを何回か折りたたみ適当な大きさにします。このときガーゼが大きすぎるとお尻がゴワゴワします。小さすぎると傷口から出てくる緑色した(リンパ液でしょうか)膿のようなもので下着までが汚れてしまいます。家内はガーゼがずれて外れてしまわないようしっかりサポートするために,スポーティなブリーフを用意していました。普段私はペントハウスのトランクスタイプの下着をつけているのですが,ぴったり体にフィットした真っ白な下着姿でボディビルダーのポーズをしてみました。

それを見て思わず発した言葉「ウフッ,若々しい。カワイイ」その言い方がなんだか嬉しそうでした。

 

Jiro物語 (13) ―― 再発か! ―― 98/09/01..
.コンピューティングに取り組まなくては生きていけない!との恐怖感を持ち,破れかぶれで2年近くがたちました。時々思うのは,これ,つまりインターネットにつながっている自分のあり方は一種の依存症的な病気だな,ということです。 見ないと安心できない。書かないと落ち着かない。ついつい時間を忘れて深夜早朝までのめり込む。ホームページの更新が出来なかったらどうしようと悲しくなる。楽しいはずの近未来に対する挑戦が苦しくて…。マシンはしょっちゅうフリーズするし,一字ちがいで設定はやり直し。もう止めればいいのにまた触れる。遠ざかろうと決心しても1日〜2日。恐いからまた戻る。なんとも矛盾した行動をとりつづけます。そう言いながら今日もクリッククリック,インターネットにストーカーしているようです。

お見舞いのメールを頂きました。心理学だったかを専攻している大学院生のE―友さん(仕事上の知り合いや古くからの知己ではなくネット上で知り合い,メールをやり取りしている人を,そう呼んでいます)。入院中に届いていたメールに,実は手術を受けて頭が割れるように痛い,と甘えた返事を出しておりました。このとき初めて,こんなのがあるの!?と「インターネットの正しい使い方講座」に出てきそうなサービスを知りました。(参照:内容は改変しています)その後私も利用させてもらっています。

術後ひとつ困ったことがありました。便を柔らかくする薬を飲み続けているので,オナラとウンコの区別がつかないのです。つまり,自分では小さなオナラが出たつもりなのにガーゼには大さじ一杯ほどのスポンジケーキのようなウンコがついているのです。これは入院中にも経験していましたので結構注意を払っていました。今のは確かにオナラだ,と確信しても一応トイレで確認するようにしていましたが,初期のころはほぼウンコでした。結局2週間ほどは肛門括約筋を鍛える日々を送りました。

さて,手術後,ちょうど1週間が経ち,外来で医師の検診を受けました。アノ信じられない頭の痛みも退院4日目あたりからどこかへ飛んでいき,この日は爽快な気分で外科を訪ねました。先生も「大変良好な回復です。」と太鼓判を押して下さいます。自分でも「ああ回復しているんだな」というのを実感できました。例えば,お尻に挟んだガーゼには絶えず緑色したよごれがついていましたがその色が日ごとに薄れていくのです。朝起きたとき,続いて昼の3時頃,最後はお風呂上がりにと,一日に3回の交換が2回ですむようになり,1回だけで大丈夫なまでになりました。毎夜毎夜家内に消毒とチェックを受けるのですが少しずつ良くなっていく様子を「真っ赤に痛々しかった傷口の色がましになってきた」「ぽっかり空いていた手術の穴がだんだん小さくなってきた」「膿の出口のようなのがなくなっている」「指で広げなかったら普通のお尻に見える」等々,一生懸命伝えてくれます。ホント,妻ならではの献身です。

いつのことだったか定かではありませんが術後1ヶ月くらいは経っていたと思います,その日,ピーナッツを食べてみました。「豆類はお尻に悪い」ということを聞いていたからです。どんな症状がでるか興味がありました。すると翌朝普段は薄緑色の汚れがほとんど真っ黒な状態になっていました。これはいけない,と恐ろしくなりそれ以降数ヶ月口にしませんでした。一方,お酒。これは百薬の長。熱燗にして1合くらいならかえって体に良いかもしれません。術後初めてお猪口に一杯呑んだとき五臓六腑にしみわたるなんとも言えない快感を覚えました。実においしい。好きなものこそチョット我慢するとその良さを何倍も味わえるものだと再認識しました。

お蔭様でピーナッツ事件を除き安定した日々が続きました。ところが色は極めて薄くなったとはいうもののいつまでたってもお尻のガーゼには緑色の汚れが付くのです。2月,3月,4月そして5月。手術をしてはや4ヶ月目に入りました。私はまたまた不安になってきました。こんなに時間が経っているのに依然として膿がでているのだろうか?ガーゼをはずすことが出来ません。とうとうASOちゃんにメールを送りました。「実は4ヶ月も経つのにまだ,汚れが…」翌日頂いた返事には「私は1ヶ月もすれば完治してましたよ。一度先生に診てもらったら?」とありました。心配していてもしかたない,と決心し,5月26日(火)再び外科に出向きました。

「市川さん,これはどうも…」検診して下さった先生の声が曇りました。「先生また手術ですか?」私は最後まで説明を聞かずにそう早口で尋ねました。

 

Jiro物語 (14) ―― 現在のお尻 ―― 98/09/15..
長らくご愛読頂きありがとうございました。今回を持ちまして最終回とさせて頂きます。

目次でお知りになった方から「ちょくちょく読んでたのに,もう最終回ですか?ちょっと寂しいですね」なんてメールを頂きました。無理矢理続編を書こうかな,と色気が出てきます。しかし“同じ病気を持つ方々に少しでもお役に立てれば幸い”との動機で始めた連載です。この辺で幕,がよろしいようです。

それから,夫婦の愛とまで呼ぶと大袈裟ですが,スワ,一大事,というとき,助け合えるのは何といっても「社会の最小単位,夫婦」です。これまで病気にまつわるさまざまな出来事や そのときどきの心模様を綴りましたが,私はその中に夫婦のほのぼのとした情感をにじませたかったのです。実は,そのことにも触れたメールを頂きました。大変嬉しく拝読しました。そうかと思うと,コーヒーを飲みながら読み進んでいたら思わず吹き出してしまい鼻から流れ出てきて苦しかったという読者もありました。皆様,本当にありがとうございました。今回で「完」ではありますが,フォルダーに残し,今しばらく加筆訂正したいと考えています。

さて,診察室です。やはり再発していました。しかし厳密には再発と呼べません。というのは痔ロウではなくどうやら別の痔なのです。先生は医学用語を使いながらも出来るだけ平易に説明して下さいました。一言一句は覚えてませんが,肛門の中に痔の一種ができている。それは薬をつければすぐ直るだろう。まず,心配はいらない。ということでした。

痔の手術を体験した私には一点非常に気にかかっていたことがありました。それは学生時代の友人Kの「黄の丸」事件です。「先生,私のお尻はちゃんともとにもどるでしょうか?友達で,痔の手術のあと長い間困っていたヤツがいまして。。。」と思い切って尋ねてみました。すると「市川さん,しっかりしていますよ。締め付ける力は何の心配もありません。」「はあ?さっき何か器械で計量して下さったのですか?」「いいえ,私の指先の感触です。」「う〜ん,なるほど」道を極めた人の感覚。これほど鋭く確かなものはありません。「ヨシ,ぼくも極めるぞ!」とまた分けのわからない決意をしています。

心配事ができてもその原因や問題点を炙り出せるということは解決の扉は半分以上開いたも同然です。私は,診察のあと挿入用の薬一週間分を頂き少し明るい気持ちになって帰路につきました。その薬の形状は超小型ロケット,鉛筆のキャップのようなものです。ピストルの弾といっても良いと思います。色はほとんど白に近いアイボリー。大きさは長さ4cm太さ1cmほどのものでした。それを朝,トイレをすませた後とお風呂上がり,夜寝る前にお尻りに差込みます。私は幸いにも肛門を締め付ける筋力は100%回復していました。が,それがかえって災いしました。その締まりの元気なお尻に遺物を挿入するのはちょっと厄介な作業なのです。入れたつもりでも筋肉の途中までしか入ってないのか,すぐニュルピンと出てくるのです。これにはちょっとしたコツが必要です。つまり,挿入するとき,気分はウンコをするようにほんの少しだけ「イキム」のです。そうすると肛門が緩むというか,ウンコを出す体制に入るわけです。つまり肛門は何かが通りぬけやすい弛緩状態になるのです。そうしておいて出すのではなく入れるわけです。そして薬のお尻の部分にガーゼをしっかり当てて人差し指で奥の方まで差し込みました。こうするとうまく行きます。

すると,翌朝には早くも効果がでました。緑色の汚れがほとんどなくなりました。次の日もその次も,症状がどんどん良くなっていきます。そして一週間が経ち外科で検診を受けました。私は先生に症状を説明しました。「そうですか。もう大丈夫でしょう。でもまた変だったら来てください。」先生も一安心。

私はその日,6月2日を境にガーゼをお尻に挟むのを止めました。そして懐かしいトランクスタイプの下着に履き替えました。でも今度はボディービルダーの真似はしませんでした。トランクスなのでキックボクサーの祈りの舞が合ってるかと思います。

そして今日まで,お尻の調子はOKです。その変遷をデジタルカメラに収めました。学術的な興味をお持ちの場合に限り,公開しようかなとも思いましたが,いろいろ考えてやめにしました。でもどうしても見てみたい,といわれる読者は...ウーン,27歳から35歳までの女性に限って特別にご覧...イヤイヤそれはいけません。

さて,今回私は入院と手術を体験致しました。それを通して得た教訓というものを箇条書きにします。健康に過ごすための奥義です。

  1. 健全な食事を心がけるのが予防の一番。最高のウンコを出す食生活を目指しましょう。
  2. ストレスは万病のもと。出来るだけプラス発想,感謝の念を忘れず謙虚に日々を送りましょう。
  3. 頭髪だって汚れます。一日中完全に清潔なお尻を保つのは不可能です。ウォシュレットで洗ってその後消毒しても時間とともにいくらか汚れてきます。それが自然なのです。クヨクヨしないで明るく生きましょう。
  4. それでも病気は襲ってきます。その日にお互いが気持ちよく協力しあえるよう,日ごろから夫婦仲良く,を心がけましょう。

寝室横の棚には家内が使っていたガーゼやピンセットそしてイソジンの入った容器が静かに納まっています。もう使うことも無いかもしれません。そう願います。

みなさまに感謝の誠をささげつつJiro物語,完と致します。