なぜこの連載を始めたか

英語の発音物語

この項には、数量的な裏付けや結論を出す為のデータ収集が十分でないものが多々あります。つまり私の主張は、これまで多少目を通した英語学習関係書物からの情報、そして特に実践から得た生身の体験感覚に基づいています。この2つに頼って論を進めているわけですが、反論・共感・資料提供等々どんなことでもご反応頂けたら幸いです

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1)日本の英語教育について

私は、日本の英語教育は「まったくなってない。根本的に改めなくてはダメだ。」なんて一切思っていません。だけどほんのちょっとは改良したほうがいいかもしれない、と感じています。 「音・イントネーション、表情・ジェスチャーの向上に特化した、コミュニケーション術向上の為の実践訓練」 これを小学5年生でスタートする必要性を強く感じています。

考えてもみてください。日本は鉄から石油、食料、なにからなにまで資源といえば外国との貿易に頼らざるを得ない島国です。小学生の教科書にすら書かれています、人的資本だけが頼りというお国柄です。そんな小国になぜ今のような繁栄があるのでしょう。鎖国を終えて開国、明治維新から今日まで、大戦時期を除いて諸外国と曲がりなりにも良好な関係を保ってきたからに他ありません。その関係を築くのに「経済」というキーワードがありますが、ややもすると等閑に付される 「言葉」 は交流を支える重要な要素です。それなしには挨拶から売買、そして条約締結まで何一つ糸口は見出せません。戦後50有余年、一番深く関係した国はアメリカ合衆国であり、そこではたまたま世界の共通語に成長してきた英語が母国語として使われていました。

交渉に当たった人々、通訳の方たちは、そのほとんどがもともとは日本で英語の学習を始め、努力に努力を重ね、海外での経験を積み、信頼できる使い手となって、この国の為に国際舞台で体を張って責務を全うされました。国の歴史を作る為に母語以外の言語を用いるとは並大抵の労苦ではなかったでしょう。明治維新では極めて少数の人々が担当したわけですが、それ以降については、日本の英語教育が礎となったことは紛れもない事実です。

この事実を無視し、頭ごなしに英語教育を否定して、一体 どういう実践教育哲学を持ち、何を打ち立てようというのですか。私は現状頭ごなし拒否派の方々にお尋ねしたい。何万時間という言葉のインプットがあってはじめて発語する母語環境を数百時間で打ち立てられると主張する。あるいは 「児童英語」 「小学生英語」と勝手なカテゴリーを捻出し、あたかもその時期に特殊な学習があるような錯覚を与える。語学にしろ何にしろ、一つの技術を習得するのに「100分の1の楽ちん道」 があったり、能力を開発するのに「非継続な学習方法」があるなんて。それは教える側の能力の無さを隠すが為の方便であったり、自己中心的な英語学習の分断に他ならない。ある部分だけ担当しあとは「知ーらない」。制度が悪い、文部省が悪い!と叫びつづける。無責任極まりない人を惑わす悪行である、と私は憤っています。

現状の制度を活用しつつ改良を加えていく。継続性という流れに乗りながら革新していく。そんな現実路線を何とかうち立てたいものです。

2)悲しい事実とうれしい事実

学校での英語学習は通常、中学から始まり長い人で大学の博士過程あるいは英会話の専門学校まで、3年から10数年続きます。なのに多くの人は一人で海外旅行も買い物すらできない。先進国は言うに及ばず開発途上の国々の 「使える英語」 のレベルからは少し劣っていると言わざるを得ない状況です。

では、なぜ我々は英語が使えないのでしょう。

一番の理由は使う必要がないからです。この国には、海外からの観光客に集団で強姦的に 「ハロー」 と一言叫ぶ馬鹿なガキどもはたくさんいますが 「Give me money」 と仮にも文章として小遣いをせがむ子供は一人もいません。英会話の練習になるから外人とみたら話しかけなさい、などと非常識極まりない指導をしている先生方はおられますが、東京でも地方の小都市でも、そこで生活していて一年に何人の外国人に出会うでしょう。例えば電車で隣り合わせに座ったとして、その人と何を話す必要があるのでしょう。

日本人の大多数は生きていく上で本当に英語を必要としてはいないのです。誰が本気でそれに取り組む気になるでしょう。よほど物好きでない限り、人は、動物は、自分の生死に関わらないことに全力投球はしないものです。全力投球しないのに上達するはずがない。子どもは産まれてから3年間必死の模倣を重ねてやっと話せるようになるのです。何度も何度も繰り返し、間違っても間違っても立ち上がる、こんな努力を大人たちが語学習得に払っているでしょうか。成果が出ないのは当たり前のことです。

ところが状況が変わると、例えば、突然海外赴任になったりすると命懸けで英語を使い始めます。これも当然のことでしょう。自己保存の本能が一挙に目覚めます。3ヶ月もすれば、いや引っ越したその日から、餓えをしのぐが為にはショッピングも狩猟と同じ、どうにかして獲物を手にしなければ生きては行けない。だから命がけで取り組みます。ま、日本人のグループの中にいて、日本語の通じるお店へだけ出かけて赴任の3年が過ぎても日常生活に必要であろう最低限の英語も話せないという笑うに笑えない現状もありますが。

必死の思いで買い物を済ませたそんなとき、ふとつぶやくのでしょう。「ああ、今までもっと英語を勉強してたら良かった。」

3)何を勉強してたら良かったのか

お尋ねします。英語の何を勉強してたら「良かったのですか?」フラッシュカードを見て象を エレファン と発音してたら良かったのでしょうか。ジャズのリズムに合わせてイントネーション・リズムを習得していれば失態は防げたのでしょうか。あるいは高度な文法力、解釈力を身につけセンター試験でもっと高得点をとっていたら良かったのでしょうか。それともNHKのラジオ英会話を丸暗記してたら堂々と振る舞えたのでしょうか。

どれも精一杯取り組んでおくべきだったでしょう。

その中で私は一生涯を通じて磨いていかねばならないものが3つあると考えます。一つは語彙。もう一つは発音とイントネーション。そして一番大事なものは自己研鑚。ものの見方考え方・生き方、つまりはアイデンティティーの高揚。

まず、語彙に関しては現状の学習方法でかなりがことたります。ただ現実の社会に役立つジャンルの語彙をより多く扱う必要性は感じます。つまり「生きるがための英語」です。さて、アイデンティティーの深まりとなると、英語学習という範疇を超えていますのでここでは対象外となります。そこで、発音とイントネーションを現状の学習方法、人間形成に加味していくという切り口を提案します。

人間形成というと大袈裟ね、と言われますか。鉛筆とノートで英文を書き移すというやり方で我々のガチガチに固まった 「日本人」 を崩す必要はありません。国語や数学の勉強となんら変わるところがありませんから。しかしこと発音・イントネーションを身に付けようとするとこれはそういうわけには行きません。凝り固まっている日本人としての習性、口の動き、舌の動き、息の使い方等、ほとんどすべてのリホームを試みねばなりません。お年をめし丸っきりの日本人であるおじいちゃん、おばあちゃんが時間をかけてもかけてもなかなか上手に英語が話せないのは、この「改めていく」という作業がほとんど不可能なまでにバリバリの日本人に仕上がっているからです。逆にそうではない児童には苦もなく日本人を捨てられます。上達が早い理由はそんな人間形成が大きく関わっている、と私は考えています。あまりに簡単に捨てられるので結果バイリンガルと呼ばれるあたらしい 「国際人」 として成長されることになります。こういう人材が、特に優秀な「国際的日本人」がこれからのますますこの国には必要になるでしょう。

さて、ある程度の学力があれば自分の表現したいことは英作できます。ところがそれを言葉として発したとき、わけの分からない発音では残念ながら相手には通じません。香港にいって英語がだめな場合は漢字を書けば、読めなくても、うまく発音できなくてもある程度気持ちは通じます。英語も同じことです。通じなかったら筆記すればとにかく言いたいことは伝わるでしょう。インターネットのメールなどはこの類です。相手もこちらが外国語を使っているということは百も承知ですから、文法が少々でたらめでもちゃんと通じてしまいます。「お前の英語でたらめだ」なんて自分のことを棚にあげてはおっしゃいません。言うやつに限ってフランス語もドイツ語も英語以外何にも外国語は話せないなんて笑い話があります。メールでのやり取りが増えるであろうこれからの時代を考えるともしかしたら話すより書くことに振り子が、皆の関心が移動するかも知れません。

しかし、ここで気をくけないといけないのは、書けば書くほどいつか必ず人と人同士対峙してコミュニケーションを取り合う機会ができる、という事実です。海外の通販にメールだけでオーダーしている人。ある日サイズや色、納期でトラブリます。そんなとき最後には電話での交渉ということになります。さあ、うまく通じるでしょうか。文通だけしている方、親しくなったら互いに訪問し合います。さあうまく通じるでしょうか。中学、高校であるいは学習塾で英語を教えている先生方、このごろはたくさん英語圏からネイティブが補助教員として学校現場に出没します。話した英語が通じない。生徒は「++先生、話したけど通じなかった。なんで英語の先生してんねやろ?」と素朴な疑問を投げかけます、陰口を始めます。こうなったら部活で絶対君主として締め上げるだけでは信頼を回復することはできません。

話せないと生きていきにくくなる、そんな状況が待った無しで進行しているのです。さあ、今ここで有効な手を打たねばなりません。

4)私は 小学5年生から中学の教科書を使った英会話クラス 開設を提唱します

私は前述したように、日本の英語教育にもしかしたら欠けているかもしれない要素は「発音・イントネーション指導」だと考えています。うまく伝えるにはどうしても理解可能な範囲の適切な「音」が必要です。この指導はおざなりになっていた。これまでは生死に関わらなかったから、と言うのが最大の理由でしょう。しかし世界規模での競争が分単位で所かまわず過激に起こるこれからの時代ではそういうわけには行かない。英語ができない国はそれだけで滅びてしまう。一対一で対峙しなお負けない人間性に裏打ちされた英語力(+コンピュータ操作能力の融合)が必要不可欠です。

では発音・イントネーション指導の不十分さをカバーするための解決法に目をむけてみましょう。英会話学校。そこへ通うことがいいのでしょうか。私はそうとも思いません。学校で使う教科書以外に英会話教材を購入し、それをも併用学習するには「受験」を控えている学生諸君には大きな負担になるのではないか、つまり行きたくても行けない事情が有るのではないかと推測します。依然として英語が上手なただの大学生より有名大学に入っている学生の方が社会的評価は高い、いや少なくとも高かったわけですので。それから年齢的な問題、いつ始めるのかも重大です。社会の一員としてこの国を支え始める25歳の時点では一応の格好をつけておかないと後の伸びはあまり期待できません。50歳で再教育とは、肩たたき出向に似た嫌がらせ以外考えられません。

そしたらどうすればいいのでしょう。

国を挙げて義務教育にカリキュラムとして一日も早く導入すべきであると考えます。

実は数年前からオーラルレッスンが高校で始まっています。時期的にちょっと遅いのではないかと思います。また、ある博士は語学習得を始めるのは8歳が適齢期、と主張されています。私もこの考えに沿っていろいろ試してみました。が努力と私自身の能力不足のせいで、結果的に「悪くはないけど、母語が確立する前にいろいろ詰め込んでも・・・、学ぶ側の子供たちにかなりの力がない限り、少し時期的に早すぎるのでは・・・、今の学校制度には中学へつなげていくのにかえって無理があるのでは・・・。」という印象を持つようになりました。そして、これは100%自分の経験から申し上げるのですが、小学生の高学年から中学生にかけて学習を始めれば、一週間に50分の訓練で、3年費やせばかなりの効果が期待できる、と確信しています。

そのクラスで用いる教材は中学の英語教科書です。

中1の英語の教科書、最初の内容と言えば母語と考えると3歳児がわかるレベルです。小学生の高学年にとっては何の困難もなく吸収できる難度です。それに最近の教科書内容は会話表現がふんだんに用いられています。これを英会話教材に使わない手はありません。この方法なら、受験にもどちらにも役立ちます。解釈や文法は放っておきます。それは中学で従来通り扱います。発音・イントネーション、表情・ジェスチャーの向上に特化し、コミュニケーションの為の実践訓練をただもくもくと重ねます。

中学でももちろん継続します。ALTの先生とゲームをする時間を減らして徹底的に発音指導をしてもらう。学校の先生もいっしょになって学習する。互いに練磨し合う、こんな姿こそが真の草の根国交流ではないかと思います。

高校に入ったら中学以前に身につけたきれいな発音・イントネーションで大学受験をこなします。

4)最後に

せっかく長時間英語学習に費やすのです。うれしい楽しいハッピーな結果がが出るように知恵を絞りたいと思います。異質文化に育った人々との交流は何にもまして人の心を豊かにします。

英語の発音物語

これがその大いなる目標達成に向け、少しでもお役に立ちますよう、お祈りしながら連載を続けます。