第4回になりました。「何で重箱の隅をつつくようなことばかり書いてるの」と言われる“あなた”。まったくその通りです。カタカナ英語であろうと、ブロークンイングリシュであろうと「買い物してたら何とか通じた」という話はよく耳にします。が、本当にそうでしょうか。 買い物だったら
商品を指差しながら How much? 。 帰り際に
Thank you. これだけ言えてクレジットカードさえ用意すれば何の支障もなく「通じた」ことになります。海外旅行から帰って「日本語だけで大丈夫だった」と大喜びの人に限って、現地ではどちらかというと日本人向けの特殊な点と点、ここでは日本語でも通じるわけです、それらをつないだ団体旅行を、かなりの割高で味わってこられています。残念ながら買い物用のアノ二言以外は、ちょっとした応答もできなかったのではないかと拝察します。
通じることと発音は関係ない、とおっしゃる方もいます。本当でしょうか。TVその他マスメディアからの情報を含め、筆者の微々たる体験から断定するのは非常に危険ですが、通じるvs発音という切り口で片方だけが見事に突出しているという方にお目にかかったことはありません。車の両輪。多少のちぐはぐは認めますが、それぞれに相応のバランスが取れています。二つに一つという主張は現実味がなくあまり説得力もありません。
さて、何かを身につける場合二通りの道があると言われています。一つは、まず全体をつかんでから部分へ目を向けていく方法。他方は部分から全体へと積み重ねていく方法。
前者は知識の習得には向いているかもしれません。小学校で歴史を概観し、中学で少し詳しく、高校でもうちょっと掘り下げて・・・というふうに全体から部分に向かうことは効果的な学習方法だということは容易に理解できます。
ところが、技術の習得となるとそんなわけにはいきません。これは職人の世界です。つまり後者に属する習得過程が不可欠といえます。徒弟制度を思い起こしてみましょう。たとえば大工さん。工作機械が進歩して砥石で研ぐ技術がなくても替え刃で代用できる時代かもしれませんが、やはり金槌で釘を打つ、キリで穴をあける、寸をきる等々。部分の技術が結集して初めて全体としての家が完成します。図面をひくのは知識主導でしょうがそれを形に整えるていくのは技術・技能という別の能力です。
英語を話すという技術は、現状の( )に前置詞を入れて100点的な知識の学習とはまったく別の次元の「現場たたき上げの職人的な技能」を必要とします。この点を見落としてはなりません。
単語を覚える、英作する、文法で文脈を解釈する。これは知識の領域です。しかしそれを音にして誰かに伝える作業は純然たる技術の世界の出来事です。話すためには話すための技術が必要なのです。
一例として、母語環境にある赤ちゃんはひたすら聴いて聴いて聴いてやっと発語して、変な音から徐々に正しい音に改めていきます。「うぶ」「まっぶ」「ちゃあ」から始まり「じじたー」「わんぷんむー」と進むわけです。何とかコミュニケーションをとれるようになるまでには推定概算2万〜3万時間という気の遠くなるような地道な努力を要するわけです。ここでは知識と技術の修得のための訓練が混然一体となってある種の均衡を保ちながら繰り返されています。
ところが、英語を外国語として学習しようとする日本に住む我々が3万時間をリスニングに費やすことは事実上不可能です。どうやら母語環境に育つ人々とは違ったアプローチを見つけ出す方が得策のようです。
ではどうするのか、私は次のようなシナリオを考えています。まず、小学高学年で音声指導を受け始め、本当に簡単な英語表現に出会あっておく。中学になると教科書で徹底的に発音を身につける。個々の音、音と音とのつながりや干渉のしかた等々、会話すべてに登場する音のバリエーションは中学レベルの英語で100%訓練できます。ここで身につけた音の技能は一生の宝です。そして高校。奇麗な発音とイントネーションで受験勉強をこなしながら語彙を増やす。その後、大学に入るころには世の中、実社会に関心を持ち始める。新聞を読む。友と語らう。人間として自分を深めていく。つまり話す内容を一生懸命貯える。そしてそれを日本語であるいは英語で表現する。
俺は高卒で20歳超えてるからもうだめなのかい?といぶかしく思われるあなた、そんなことはありません。目標もってそれに向かう地道な努力を重ねれば必ず進歩していきます。大事なことは進歩させるということです。一人一人が向上すれば日本の力は以前に増して高まります。スタートを切るのに遅すぎるなんてことはありません。
さあ、一音ずつ身につけましょう。部分の技術を結集してコミュニケーションという素敵な家の完成を目指して。
筆者 拝
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