Jiro物語 (1) ―― 連載の動機 ―― 98/02/15..
... 私、現在43歳、平成10年1月23日(金)、誕生日の次の日に入院、痔ロウの手術を受けました。ときには1ヶ月や2ヶ月入院する人もいる、と聞いて内心少しは不安でしたが、かなりラッキーな場所にできていたこと、素人判断で引き延ばしてこじらせなかったこと、そして先生や看護婦さん(今回初めて“看護婦さん”のお世話になりました。本当に白衣の天使だなと感じ入りました。結婚前に入院していたら今の家内は元看護婦さんだったかもしれません)のお陰で、ありがたいことに翌週1月26日(月)には退院できました。

.. それ以来、親しい友人と病気、つまり痔、の話になりますと、19歳から64歳まで老いも若きも男性女性を問わず「実は私もちょっと悩んでまして、でも場所が場所だけに恥ずかしくて。。。」「はじめの症状は。。。」「手術は大変でしたか。。。」「どんな格好で。。。」「へえ、やはりウォシュレットにされたのですか。。。」等々、次から次へと質問が浴びせられます。

.. 私はその都度、これも世の為、人の為と思いながら、事細かに説明するのですが、「かなり多くの人が患っておられる、不安に思われているのだ。でも聞くに聞けない。言うに言えない状態か ――」と実感しました。実を言うと私自身、手術を受ける前「痔」を扱われているHPを検索しました。どれも医師が書かれたものでした。手術中の写真が付いていて詳しい病気の説明もあり入院前の予備知識が得られずいぶ助かりました。ただ患者の体験談などは見つかりませんでした。それはそうでしょう。やはり「場所が場所だけに」事細かに公表する人は。。。。(最近の検索でお一人、歯科医が載せられてる事が分かりました。リンクを張らせて頂いております。それからもうお一人。イヤー,私を含めそれぞれに一ひねりしたタイトルがついています。)

.. 私も逡巡しましたが今回、思い切って「Jiro物語」としてインターネット上で体験談を披露して少しでもご参考にして頂こうと、決心しました。鏤々申しましたそんな思いで今日から連載を開始します。

.. 尚、かなり露骨な表現で説明しなければならない場面が出てきます。ご了承下さい。またこの連載は1日と15日に更新する予定です。

Jiro物語 (2) ―― お尻の話し ―― 98/03/01
.. 子供の頃、下着が汚れることに不快感と罪悪感を感じていました。身体検査の日になると級友たちは「汚れないのかな」と気になりました。東京に下宿していたときはお世話になっているおばさんが「洗ったげますよ」と言っては下さるのですが、なんだか恥ずかしくおおよそ「自分で洗いますから」と好意をお断りしていました。

. . 大学3年のとき、高校時代短距離を走っていたという友人Kが「俺は痔の手術をしてるんだ」と威張っていました。彼のアパートでのことです。確か後輩のY君と私と3人でお酒を飲んでいたように思うのです。どういう事情だったか思い出せませんが、Kが、下着一枚になって「私の彼は左きき」を歌い出しました。そして我々の方にお尻を向けるのです。その折り下着が“黄の丸”になっていました。Y君と私は大笑い。一方、Kは「いろいろ大変なんだよ」と神妙な顔をしたのが印象に残っています。

.. 子どもの頃から現在まで、排便後肛門周辺が「イタタタタ」とか「カイーイ」いうことは幾度となく経験しています。呑みすぎたり、便秘になったり、冷えたり、下痢をしたりすると症状がひどくもなりました。こんなことは術後お話した方々100%が体験されています。今お読みになっている貴方はいかがですか。

.. 私は7〜8年前からウォシュレットにしたくてしたくてしかたありませんでした。が残念ながらこの辺りはまだ下水が完備されてなく、簡易水洗トイレを使っているものですから諦めざるを得ませんでした。だけどキレイにしたい!という気持ちをズーっと持っていましたのでいろいろ工夫をしました。

.. .まず、排便後、ティッシュにオロナイン軟膏を適量とり、それで拭き取りの仕上げをしました。外出時は、人工膀胱をつけておられる方から「唾液が消毒には最適」というお話しを聞いておりましたので、オロナインの替わりにツバをティッシュにつけてきれいに拭き取るようにしていました。夏場は必ずシャワーで仕上げ等々気を遣ってきたつもりでした。

.. ところが、昨年10月頃、長年慣れ親しんだお尻の「イタタタタ」とはまったく異質の「アレー??なんだかイタイ」が始まりました。

Jiro物語 (3) ―― 予兆 ―― 98/03/15
.. どのような「痛み」かを文字にしてみます。

.. それは、まず排便後に始まりました。肛門付近、皮下の深い部分から一本、痛みのエナメル線が3cmほど外に向かって走り出す、という感じでした。不思議なことにこの痛みは用をたして5分もするとスーっと消えるのです。長年慣れ親しんだ「切痔」的な痛みとは異なっていました。体調は良く快便が続いていました。しかし、来る日も来る日も不快感があり、しかも痛みはだんだんと増してきたので、私は徐々に心配になってきました。しばらくすると排便後でなくても肛門の少し横(私の場合は左側)を押さえると同じ痛みをはきっきり感じるようになりました。目に見えない病気が進行しているのだ、と不安が高まりました。

.. 晩秋に入り、幼なじみがガンで亡くなりました。葬儀で生まれて初めての弔辞。辛く悲しい役目でしたが、「自分ももうすぐ行くかも知れないよ」と霊前に向かって心の中で言いました。私は大腸ガンに侵されていると思っていました。ところが、このころ盛んに漁った医学書に書かれている症状はどれ一つとっても私には当てはまらないのです。

.. ガンではなさそうだ・・・.、一体何者が私の体を。

.. 病名自体は知っていましたが、痔と言えば切痔かいぼ痔、触診や出血等で判断できるものと考えていました。まさか痔ロウの症状だなどとは考えもつきませんでした。

.. 私はその時42才、ちょうど後厄の最後にさしかかっていました。そこで、12月になってすぐ、最も信頼できる男が自宅のすぐ近くで循環器内科を開いているのですが、そこでいろいろ検査を受けました。しかし、何も異常は出てきません。ただその時点でも「お尻が痛くて」と告白してはいませんでした。言えない分、毎日毎日一人で悩んでいました。

.. 12月22日、月曜日の朝。トイレの後、激痛が襲いました。カミソリが肛門の近くに入り込んでラジオペンチで抓られているような痛さでした。そして何時間たってもその痛みは消えませんでした。椅子に座ること自体苦痛でたまりません。玄関を一段踏み降りることもできないくらいの激痛でした。運悪くその日は早朝の会議がありました。私は参加者に気づかれまいと、だいぶ無理をしました。

.. 夜になりました。私は妻に異常を訴えました。我慢の限界が来ていたのです。そして、お風呂から上がって裸のまま四つんばいになり、お尻を診てもらいました。

妻「なにか肛門の横がチョット膨れてるみたいよ。これ押さえたら痛い?」

私「ウー、イタッ」

妻「モノみたい。痔と違うの。」

私「えー。痔??でも血も何も出ーへんねんで。」

妻「血がでーへん言うても、いろいろ種類があるのと違うの。」

私「そうやろか。調べてみろか。誰か痔のこと出してるかも知れへんな。」

そう言いながら私はコンピュータに向いました。

Jiro物語 (4) ―― ついに医院へ ―― 98/04/01
.. 検索しますとたくさんホームページが見つかりました。その中で「Dr. OKのまじめなおしりのはなし」(目次でリンクを張らせて頂いています)が目に留まりました。手術のページはさすがに度肝をぬかれましたが、大変参考になった事はいうまでもありません。

.. 痔ロウという病気は、ストレスや細菌、その他の原因で直腸やもう少し肛門に近い部位に傷がつき、そこが化膿して徐々に穴が深くなり、シャープペンシルの芯ほどの太さのバイパス、つまり膿の通り道ができてしまう病気のようです。手足の化膿なら時期がきてその皮膚がはじけ中の膿が出てしまえば後は徐々に直っていくわけです。が、肛門付近の場合は大腸菌などの菌が絶えず供給されるわけですから症状はいつまでも改善されずにかえってどんどん悪化していく。放っておくと何本もバイパスができ、最悪の場合癌にさえなってしまう可能性があるそうです。

.. 12月24日、私はホームドクターを訪ね症状を.訴えました。そしてとりあえず痔の薬をもらったのですが「専門ではない」とのことで、総合病院の外科を紹介してもらいました。

.. さて私の症状は悲惨そのものでした。歩くときは片足を着地させるショックでさえ痛みのパルスが走ります。段差などの上下移動は両手で体を支えなくてはなりません。コンピュータに向おうにも椅子には座れませんでした。腹ばいになってのメール打ち。情けないの一言でした。後で解ったことですがどうやら膿の通り道が腸から肛門の横へ貫通する直前の状態だったようなのです。言葉に尽くし難い激烈な痛みが続いていました。

.. 夜、妻に症状を説明し再びお風呂上がりにお尻を観てもらいました。自分では鏡を使ってもうまく見れませんでした。「肛門のすぐ横がなんだかプツンとしている」と言います。自分でそおーと触れてみますとその腫れがわかりました。「痔のモノかな??」なんとも意味不明なことを言いながら、薬をガーゼに塗ってお尻に挟み、床に就きました。横になるとずいぶん楽になります。直立歩行になって人には痔という病気が付きまとい始めたとも言われています。なるほどな人間ももともとは4つ足だったのか、と思わず納得するワタクシでした。

.. 翌朝、不思議なことにアノ痛みがかなり薄らいでいました。私は「薬のお陰でこんなに楽になった」と嬉しくてしかたありません。実はこの時、まさか手術を受けることになろうとは夢にも思っていなかったのです。確かに痔に関しての予備知識は得られましたが、残念ながら、それをもとに自分自身を診断する能力を私は持ちあわせていませんでした。しかも薬を塗った次の日にはあれほど苦しめられた痛みが“ちょっと我慢すればいい程度”になっていたのですから。このまま回復するのだろうと安易に考えていたのです。

.. とうとう検診です。今度は、どんな格好で診察して頂くのか気になりだしました。まさかトカチェフ?ウルトラC?そんな!

.. で、またまたホームページを調べました。「きくた肛門外科のホームぺージ」(目次でリンクを張らせて頂いています)に答がありました。「うーん、これなら安心。」 私は総合病院の外科をたずねました。12月26日(金)、お正月まであと5日。師走のあわただしい日のことでした。

Jiro物語 (5) ―― 外科での診察 ―― 98/04/15
.. その日は年末御用納め。さすがに順番を待つ患者さんやその家族らしき人々でフロアーがごった返していました。私は早足で受付に向い手続きを済ませ、外科外来傍の待ち合いに腰を下ろしました。痔の予備知識も診察を受ける姿勢も頭に入っていました。「主治医は全幅の信頼が置ける先生」というホームドクターの言葉も心強く、気分はずいぶん落ち着いていました。

.. かなりの時間が経過したあとやっと名前を呼んでもらい、診察室へのカーテンを開けました。目が合いました。「あ、この先生なら安心」私はホームドクターの言葉をもう一度かみしめました。

.. 紹介状を手渡し医師のお尋ねになるまま症状を説明しました。

.. 「それでは拝見しましょう。ズボンをずらして横向きに寝て待っていて下さい。お尻の部分にはバスタオルを当てられたら良いでしょう。」

.. 真っ白なカーテンで仕切られた診察用のベッド。側の脱衣かご。天井の蛍光燈。診療の声。看護婦さんの足音。消毒液の臭い。う〜ん、私は間違いなく病院のベッドに横たわろうとしているのです。

.. 姿勢はわかっているけどどんな風に診察されるのかな??機具で肛門を開くのかな??もしかしてうんこがちょっとくらい出てしまうのかな??そんなことになったら申し訳ないな??待っている間に次々疑問が湧いてきます。

.. 「お待たせしました。それでは診てみましょう。」と先生。手にはゴムの手袋がはめられていました。私は思わず「恐れ入ります。」

.. 物凄いパワー。お尻の穴が何倍にもなったような感触です。先生がどのように診察されているのかは、もちろん見えませんがやはり指先でいろいろ調べられている感じです。肛門部分だけでなく奥の方まで押し広げられている。。。。と、急に息が出来なくなってきました。お尻の中に何か入れると息がしにくい!「あ、そう言えば…」などと一人で納得しながら苦しさに耐えていたとき「息は口でして下さいネ。」と看護婦さん。機具が触れ合うのか、かすかな金属音も聞こえます。

.. 医師は「市川さん、ちょっと痛いですよ」そう言われるが早いか、肛門付近のコリコリした固まりを力いっぱい指先でひねりあげられました。瞬間、長い間溜まっていたであろうウミがピュルッニュルピーッと一挙に飛び出したようでした。その痛さといったら表現のしようがありません。「グーッ・・」と声にならない声をあげ、奥歯を噛み締めました。硬く閉じた目頭から涙がツツーッと一筋ほほをつたいます。

.. 「ハイ。済みました。ご説明しますので、ズボンをはいてこちらに来て下さい。」ずいぶん長く感じた診察が終わりました。

.. 先生はメモ用紙に直腸から肛門にかけての断面図を描きながら状態を説明して下さいました。ホームドクターからもらった薬が見事に効いて快方に向っているものと信じていた私に先生の言葉はまったく意外なものでした。

.. 「市川さん、痔ロウです。手術をしましょう。」

.. 「えー、僕は生涯手術はしないはずなのに。。。。?そんなア。」私は心の中でそうつぶやいていました。

Jiro物語 (6) ―― 入院準備 ―― 98/05/1
. .私はとっさにお尋ねしました、「手術しないで治す方法はないのでしょうか?」ところが先生は毅然と、しかもジェントルに、痔ロウの治療には手術が一番。ロウの形成が深いところではないので手術も困難ではなく長期の入院にはならない。このままの状態で数ヶ月なら病気と付合うことも可能だが悪化する恐れもある。さあ、どうしましょう、と決断を促されました。

. .私は、一瞬、ゴールデンウィークまで手術を延ばし、日数的に余裕を持って入院治療を受けようかとも考えました。が、病気の予期せぬ進行に自分をコントロールされることだけは避けよう、こちらがイニシアティブをとり積極果敢に入院・手術を組み立て、事態に対処しようと思い直しました。

. .手帳を見ました。理想は1月14日入院手術。16日(金)、17日(土)と休みを取り日曜を挟み翌週月曜の退院でした。しかしそれは叶いませんでした。既に患者さんたちの手術が決まっていて入院用のベッドが足りません。結局、23日(金)入院手術、24日(土)25日(日)そして26日(月)の午後退院、というシナリオでお願いしました。経過はしっかり見届ける必要はあるが、何とか退院できるかもしれない。一週間くらいは病院にいた方がいいが・・・。と先生も一応同意下さいました。

. .看護婦さんはお尻の消毒方法と入院準備についてのこまごましたことを教えて下さいました。その中で手術前日の夜9時に下剤を飲むこと、が印象に残りました。その後どうなるのか少し気になったからです。最後に先生はご自身が加療として施して下さった膿の袋マッサージを私自身でするように、とアドバイス下さいました。恐怖の「Jiro絞り」が始まります。

. .診察後、事の詳細を家内に連絡しました。「そうですか。わかりました。出来たことが最善だから。」非常に落ち着いた返事が返ってきました。

. .さあ、入院に向けての大作戦の始まりです。まず排便後と就寝前の消毒、そして「Jiro絞り」をご紹介します。

. .昨年末時点、トイレはまだウォシュレットにアップグレードしていませんでした。排便後はティッシュでふきとり大急ぎで下半身裸になってシャワーを使います。非常にソフトなハンドタオルを何枚も用意しました。そんなタオルでも、ロウの出口に当たるとビリリと痛みますのでうまく迂回するように洗い流します。そして病院で頂いた消毒液を洗面器に薄めその上をまたぐように“開脚ウンコ座り”をしてお尻をチャプチャプ消毒するのです。

. .肛門のすぐ横には小指の先ほどのハレー彗星の形状をしたコリコリする固まりができていました。それが膿の袋でロウ、つまり直腸から肛門横への膿の通り道、がそのど真ん中を貫通しているのです。これを優しくほぐしながら親指と人差し指で摘み上げるようにギュギューーッ、と4-5回絞ります。鋭い痛みが走ります。涙が出そうになります。でもこうやって溜まっている膿を除いておけばその後がずいぶん楽になります。ほとんど傷みは無くなるのです。最初は要領がわからず本当に大変でした。情けなくもなりましたが、徐々に慣れてきて手際よく出来るようになりました。年末から手術当日の朝までおよそ1ヶ月間、無理に鼻歌を歌いながらできるだけ明るい気分でこの一連の作業をこなしました。消毒液を含んだタオルには少量の出血と緑色した膿が滲みます。

. .年が明けました。元旦は我々のお仲人様に家族揃ってご挨拶に上ります。2日には高校時代の友人が家族を伴い3組、我が家に遊びにきました。一人は大阪で助教授をしています。中国哲学が専門で、なんだかわけの解らない論文のレジュメを英訳しろ、と毎年脅迫します。お陰で私も少しは「鬼」のことが詳しくなりました。もう一人はウラン濃縮をしていた男で、高校時代からむちゃくちゃ頭はいいのですがぜんぜんそうは見えない広島男。いまだに髪の毛がふさふさです。後一人は宗教を志し現在奈良にて修行の身です。かっこいいワンボックスカーで現れました。ペンネームを加賀九十郎といいます。彼らとはおよそ一年ぶりの再開で、昔話に花が咲き、ずいぶん楽しいときをすごしたのですが、やはりどこか手術のことが気にかかります。絶えずお尻を意識している自分が話しの輪の中にポツン座っているのでした。

. .3日は買い物に出向きました。結婚したおり買ったガウンがだいぶ傷んできていましたので新しいのを一着求めました。11日には妻の里を訪ねエビのおどりやアワビ等々舌鼓のお寿司を頂きました。23日と24日、私のいない間の仕事の手順も万端整いました。

. .入院準備はすべて完了。

. .1月22日(木)43才の誕生日、午後9時。私はオレンジ色した下剤をゴクゴク呑みほし床に就きました。

Jiro物語 (7) ―― 入院 ―― 98/05/15
.. ありがたいことにその夜は熟睡できました。5時頃でしょうか、お腹がキリキリゴゴゴーと痛み出しました。「来、来。(なぜか中国語のアクセント。中国のどこかの大きな川はある時期、河口の海水が大洪水のように上流に向い逆流する。そんな自然の不可思議を特集した番組を見たことがあります。押し寄せる高波を目の当たりにした中国人男性がカメラに向って大声で叫んでいました)少しはガマンした方が良いのだろう。全部うまく出てしまってね。」などと独り言を呟きながらガウンを身に付けトイレに入る準備をしました。隣りで「お腹痛いの?」と気遣う家内、眠たそう。

. .下痢は何度も経験していますがあんなのは初めてでした。何千匹、何万匹と捕獲された小魚が水揚げされる際、網から一挙に水槽に落とし込まれる場面、結構TVで見たことがありますが、一瞬にしてそのままのことが私のおなかの中で起りました。本当に一瞬の出来事でした。「これで少しは減量できるかな…」手術とはなんの脈絡もないことを思い、なぜだかその状況を楽しむ自分が不思議でした。

. . おなかもすっきりして,もう一度布団に入りました。7時には身支度を整え、床の間へ。仏壇のご先祖に「お見守り下さい」とご挨拶をして今度は事務所の神棚の前で「留守中、宜しくお願いします」と拍手を。神道と仏教、聖徳太子がうまい具合に足して2で割られて、異なる宗教が渾然一体、色濃くこの国を形作る。よしっ、自分もやはり日本人だ…。ここでもなんだかよそ事を考えています。

.. 「お父さんは、今日から月曜まで入院して手術を受けるので、…」と朝食のテーブル。「ガンバッテね。」と子供たち。廊下伝いに母屋に渡り両親にも挨拶して、車に乗り込み、午前9時少し前には病院に到着。私は2つ、家内は3つ、着替えやタオルの一杯詰まった大きな紙袋を下げトコトコ受付へ。それから外科で「今日入院でお世話になる市川です。」とご挨拶。しばらくして、担当の看護婦さんを紹介して頂きました。 とっても話しやすい、どこか肝っ魂母さんのような女性でした。年の頃は26−7。タレントに良く似た人がいますが、ご本人のプライーバシーのこともありますのでここではYK似としておきます。

.. さて、看護婦さんの仕事をときどきは垣間見ていましたが、実際自分自身が患者としてお世話になって、これほど大変、だけど同時に素晴らしい仕事も無いだろう、と何度も何度も感謝の気持ちが湧いてきました。「今日は違う患者さんのお世話をされているのだな。」キーをたたきながらそんなことを考えています。

. .手術の予定時間は午後1時過ぎでした。それまでに済ませることは、点滴、それから剃毛。

. .点滴は体調を崩した折りとかに受けたことがありますが、小さな車がついて移動できるテレビのアンテナのような医療機具にぶら下げたままでというのは初めてでした。少々不謹慎かも知れませんが、この格好で廊下を歩いたときも、重病ではない、すぐ退院できる、ガウンがオニュー、この3つの理由でなんだか嬉しいような気持ちでした。皆に注目されているのでは,と,ちょっとスターになった心持ちです。

. .病室には6つのベッドがあります。胃ガンを手術された方、喉のポリープを摘出された方、扁桃腺を切り取られた方、手術を待つ方とあと一人。私は新入りでした。それぞれのベッドは白いカーテンで仕切られるのですが、剃毛はそのベッドの上で始まりました。看護婦さんは、床屋さんが使う髭剃り道具のようなものを用意されていました。私は着替えを済ませていましたので縄文時代の衣服の様な手術着をはおっていましたが下着は付けず裸の状態でした。丸めた掛布を抱きかかえるようにうつ伏せになりお尻を突き出し儀式の準備は整いました。肛門を中心に直径15cmくらいの円状に野焼きの雰囲気でジョリジョリジョリ。総じて朗らかに処置して下さった看護婦のYK似子さんですが、悌毛のスタート地点、お尻の左上、では手元を狂わせたか、カミソリの切り傷が2〜3個所。そこがヒリヒリするのでバンドエイドを張ってもらいました。「キムタクが入院したらヤバイやろね。」「どやろねー、私たちは一人の患者さんとして診るから大丈夫と違うやろか…。イヤ、やっぱり,市川さんよりもっと緊張するやろね。ウフフ。」なんとも正直な方です。

. .友人のK君、高校時代に腎臓か何かの手術をした折り、看護婦さんに「前」を剃ってもらいました。「頑張ったけどちょっと興奮してしまった」そうです。いまでもその時のことを思い出すと恥ずかしそうに、髪をなであげます。それを知っているので,私は,勝負のかかったパットの前にはそおーっと耳打ちします。「あ、そう、ガーゼで押さえてくれたん。剃りにくかったやろナァ、看護婦さんは。分かるは。」これでこちらの勝ち。ちなみに“ツマイガイディスエナブル症候群”を患っている私にはそういう変化は起りませんでした。ウーン,ちょっと寂しい。

. .と、そこへ、「済みましたか?」と執刀医の先生がカーテン越しに声をかけられました。

次のページに続くづく